44歳の僕がステージ4の大腸がんと診断されて

2016年大腸がん発覚。手術後、腹膜への転移が確認されステージⅣだと告知される。その後半年間に及ぶベクティビックス抗がん剤治療を受ける。2018年12月がん再発。アバスチン抗がん剤治療を受ける。

癌が発覚してからひどくなっていく気分の落ち込みをなんとか解消しようと自分なりに分析してみた【がん闘病記02】

この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の5月下旬ごろに書いたメモをまとめています。

癌が発覚すると、いろんなことが面倒だということが分かった

2016年5月。

大腸癌と診断されてから数日がたった。

正直なところ結構気持ちが落ち込んでいる。

なんなんだろうこの気持ちの落ち込みは、ズンっと重苦しい何かが胸の奥で食い込むように気分を重くさせている。 

ただやみくもに落ち込んでいてもしょうがないので、その根っこを考えてみることにした。

分析することでこの気分の落ち込みをなんとか解消していきたいと思う。

なぜ癌が発覚すると気持ちが落ち込むのか

思いついたものを羅列していくと、

  • 手術が面倒(きっと大変な手術になる)
  • 入院が面倒(入院中はいろいろ行動が制限される)
  • 手術の前後の準備が面倒(きっと前日から絶食などしなくてはならない)
  • 手術後の体調不良が面倒
  • 癌が原因で自分が病死したら面倒

とまあ、いろいろな面倒なことがこれから山のように待ち構えているということと、最も大きな要因は 「癌=死」 というイメージがどうにも拭いきれないでいること。

もしかしたら自分は間もなく癌が原因で病死するかもしれないという恐怖。

まるでこめかみに拳銃を突き付けられ、それがいつ暴発するか分からないようなそんな怖さがある。

 

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特に最後の「癌が原因で自分が病死したら面倒」という項目には絶命に至るまでの面倒なことはもちろんのこと、辛いこと、苦しいこと、痛いことなどいろいろありそうだ。ということが含まれている。

眠るようにスッと亡くなるのなら良いが、最後のその時に至るまでは相当な苦しみが待ち構えているだろうことは予想に難くない。

命を奪い去るほどの痛みとは

癌が原因で亡くなる場合、僕のイメージとしては身体のいろんな場所に転移して手が付けられなくなって病死する。という感じ。

治療の見込みがなければ終末治療とか緩和ケア?(自分でもよく分かっていない)みたいな感じで、「治療」ではなく「延命」を柱に痛みを和らげることに焦点を当てた処置になるのではないかと思う。

今まで40年以上生きてきて様々な痛みを経験してきたけど、どれも死に至るほどの痛みではなかった。(現に死んでないから)

死に至るほどの痛みとはどれほどのものなんだろう? とても想像できない。

命を奪い去るほどの痛み。

どれほどの痛さなんだろう?

全くの未経験だし、経験した時点で僕の命は終わる。

そんな痛みを味わうのはとても面倒なことだし、とても恐ろしい。

怖い。

そしてその痛みを和らげるための終末医療?のイメージ、僕の勝手なイメージだけどこんな感じのイメージが頭の中をぐるぐる回っている。  

 

僕の勝手な終末医療(緩和ケア)のイメージ

真っ白な病棟で、ここはとても静かだ。

時折、看護師さんがパタパタと早足で歩く足音が聞こえるくらいで、普段はひっそりとしている。

病室は一人部屋。

窓からは温かい日差しと、少しだけ開けた隙間から入ってくる優しい風が、柔らかくレースのカーテンを揺らす。

 

この病棟に来て一ヵ月は経つだろうか。

僕といえば身体中に転移した癌のせいでロクに食事もとることができなくなり、すっかりやせ細ってしまった。

それに長く続いた抗がん剤の影響で髪の毛はほとんど抜け落ち肌は黒ずんでガサガサしている。

 

死にかけ。

 

今の僕を形容する言葉があるとすればこれが一番しっくりくるのかもしれない。

病室での僕は少しだけリクライニングさせたベッドに横たわり、片耳だけイヤホンでつながったテレビをうつろな目で見ている。  

 

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昼間のテレビから流れてくるのは同じような内容を時間を変えては同じように伝えるワイドショーとニュース番組。

それとドラマの再放送。

もう何を見ても面白くはないのだけれど他にすることがないからしょうがない。

ベッドのそばには付き添いで居てくれている母が何か果物を剥いてくれている。

母さんってこんなに小さかったっけ?小さな丸椅子の上に小さく座って寂し気な表情で果物を剥いている母を見ていると寂しさからなのか苦しさからなのか分からないけど、なぜだかそんな風に見えてしまう。

 

っつつ痛っ…痛さがぶり返してきた、薬が切れてきたみたいだ。

僕の苦しそうな表情を見て取ったのか母が慌ててナースコールのボタンを押す。

ほどなくして看護師さんがパタパタと小走りでやってきて痛み止めの注射を打ってくれる。

ああ、これでまたしばらくは楽になれる。

治まってきた痛みのかわりにほんの少しの眠気がやってきて、ウトウトとまどろみかけていると、廊下から聞こえてくる数人の人たちがすすり泣く声でふっと我に返る。 

 

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どうやらまたひとつの命が終わったらしい。

その命の家族が、親しい人たちが一斉に悲しみの波に飲み込まれているのが分かる。

この病棟でそんなに長くとどまれる命はない。

明日にはまた一つベッドが空くだろう。

 

「次は自分の番なのだろうか…」

 

そんなことを思いながら痛みと痛みのわずかな隙間に入り込むように少しだけ眠りについていく…

 

あー想像するだけでなんだか気が滅入ってきた。こわい。

勝手に想像して勝手に怖がっている。

すれ違う人たちがうらやましく思えてならない

ちょっとでも気を紛らわせようと散歩に出かける。

外を歩いていると、道ですれ違う見ず知らずの人たちを見てこう思う。

「ああ、この人たちは自分の命の心配をしなくていいんだろうな」 うらやましい。

嫉妬ではなく羨望。

もうわずかかもしれない自分の命とそれに対する渇望なのかもしれない。  

 

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最優先で心配すべきことを意外と心配していない

たとえ健康であっても、日常で心配しなくてはならないことはたくさんある。

  • お金の心配
  • 仕事の心配
  • 家事の心配
  • 人間関係の心配
  • その他もろもろの心配

癌を告知される前の僕がそうであったように、たくさん心配事がある中で自分の命の心配は日常的には意外としていない。

自分の命の心配は常に最優先、自らの人生の根幹に関わることであろうはずなのに意外と心配していない。

そればかりか自らの命の問題に比べれば取るに足らないことのはずのお金や仕事、人間関係の問題に日々きりきり舞いしている。

よくよく考えれば矛盾しているのだけど、日々当たり前にありすぎる自分の命が当たり前にありすぎるがゆえに見えにくくなっているからなんじゃないのかな?

長生きできるものだと当たり前のように思っていた

癌が発覚する以前の僕もそうだったけど、多くの人が明日も今日と同様に自分はこの世界に存在し、今日と同様に一日を終え、また次の日も当たり前のように存在し続けると信じている。

妄信している。

次の日も、また次の日も次の週も次の月も次の年も…まるで永遠とも取れるくらいの長い年月を生き続けることができると漠然と信じている。

「死という現象」は遠い遠い場所にある。

地平線のずっと向こうにあり、まだまだ自分とはまるで無関係だという幻想を信じている。

 

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 自分の命が見えてきたのか

では逆に日々命の危険にさらされている人たちは自分の命が見えているのだろうか?

危険な任務に就く警察官や消防士、軍人の方々、海上や高所、または深い海中や地中で作業する人たち。

そんな人たちは自分が今日死ぬかもしれないと日々思いながら生きているのだろうか。

それとも死亡事故がそんなに頻繁に起きなければそういう気持ちも「慣れ」と共に薄靄の中に消えていくのだろうか。

「死地におもむく」

そんな人たちの気持ちが癌が発覚した今なら少しだけ分かるような気がする。

共感できるような気がする。

来年の今頃、僕はもうこの世界に居ないのかもしれない。

そう考えるとやっぱりさみしいし、僕の心が悲しい色にあっという間に塗り替えられていくのが分かる。

 

今こうして腕を振って外を歩いている自分という存在。

この腕も足も身体も頭も来年の今頃には既にこの世界から全て消えて無くなっている可能性。

気分が落ち込むというのは、そういうところからなのかもしれない。