44歳の僕がステージ4の大腸がんと診断されて

2016年大腸がん発覚。手術後、腹膜への転移が確認されステージⅣだと告知される。その後半年間に及ぶベクティビックス抗がん剤治療を受ける。2018年12月がん再発。アバスチン抗がん剤治療を受ける。48歳になりました。

ピンとこない終活とネガティブの王【がん闘病記25】

この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の6月下旬ごろに書いたメモをまとめています。

終活なんてしたくない

2016年6月。

大腸癌手術での入院から退院して8日目。

今日も悲しみに包まれたまま目が覚める。

精神的にかなり落ち着いてはきたものの、まだ楽しい気分で目覚めの朝を迎えることはできていない。

怖い夢でも見ていたのだろうか、気づけば寝汗でびっしょりになっているが夢の内容は思い出せない。 

こんなことは初めてだ。

悪夢なら思い出さないほうがいいのかもしれないけど。 

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意識し始めた「終活」という言葉

癌を告知されてしばらくすると「終活」なんて言葉がちょいちょい耳に入ってくるようになってきた。

耳に入るというか、そういうワードが記憶に残りやすいというか、つい意識してしまうせいなのかもしれない。

きっとステージ4の大腸癌と告知される以前であれば自分には全く関係ないことだと普通に聞き流していたし、記憶にも残らない言葉だと思う。

きっちりかっちり調べたわけではないので詳しくは分からないが自分の人生をきれいに終わらせたいと願う人が行う活動のようなニュアンスだととらえている。

僕はこの「終活」という言葉にあまりピンときていない。

確かに僕は死ぬ。

100歳以上は元気で生きていられないだろうってことは確実だ。

おそらくそう遠くない未来、癌は僕の命をもっていくだろう。

かといって今すぐにこの終活をしようという気にはなれない。

まだ「終活」にはあまり共感できない

終活とは「立つ鳥跡を濁さず」ではないが自分の身辺をきれいに整理してから残った人たちに迷惑が掛からないようにあの世に行こう。 って感じなのだろうか?

でもそれって自らの死に対して意識をフォーカスしすぎて、過剰にエネルギーを使っている気がする。

 

「もう、あきらめた」

「いい人生だった、思い残すことは無い」

「せめて最後くらいきれいに死のう」

「残された人たちに迷惑がかからないようにしよう」

 

そんな声が聞こえてくるようだ。(あくまで僕の勝手な思い込みだけど)

僕は今のところそういう声にあまり共感できない。

自分の中にある「死の恐怖」に対してまだ完全に屈服したわけじゃない。

僕は「死の恐怖」に対して一度は完全に白旗を揚げた。

「死の恐怖」から圧倒的な力で地面に叩きつけられ、「完全に参った、もう降参だ」とも思ったけど、僕は厚かましい人間なので時が過ぎれば今またこうして立っている。

がん進行度ステージ4の大腸がんを告知された今、僕の目の前には「死」が見えている。その息づかいを感じている。

それに付随する苦しみも同様に見えている。

 

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でも「死」に対する今の心境としては

「あー、はいはいどうせこっちに来るんでしょ?でも即効性の致死毒ってわけじゃないよね?来てもいいけどなるべくゆっくり、そして悪さしないでよね」 って感じ。

 

僕はがん患者だ。

ステージ4のがん患者だ。

 

でも明日になればたちまち死んでしまうわけじゃない。

ただこれまでは自分の人生のなかではまだはるか遠くにあると思っていた「死」がステージ4の癌だと診断されて、急に手を伸ばせば触れることができそうな距離まで近づいてきただけのことだ。

 

僕が生まれた瞬間からその王は存在していた

僕の中で「死」は王だ。

ネガティブの王様だ。

 

「死」とは僕の中で最も強い位置にあるネガティブなもの。

物心ついた時から、人は死ぬものだと分かったときからそのことを心のどこかで少なからず意識してきた。

僕の心の奥底に大きなその王が黒く長く冷たく横たわっているのは知っている。

 

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誰の心の中にも「死の王」はいる。

普段は見えにくくなっているだけで確かに存在している。

王は最初からそこにいた。

癌が発覚するずっと前から。

これは決まっていたことだ。命を持つ者の運命(さだめ)として。

僕がこの世に生を受けたその瞬間からそこに存在し、いつか訪れる人生の最後にはその「死の王」に取り込まれることは抗いようのない事実。

じゃあ大した違いはないはずだ。

見えていても見えていなくても、見ようとせずに目を背けていても、居ることに違いはない。

ずっと前から分かっていたことなんだから今更驚くことでもない。

ジタバタすることでもない。

感じてみたかったのかもしれない 

不老不死でもない限り、生きとし生けるものの運命として必ず死は訪れる。

事故や災害で急逝する人にとっては死は全く見えない背後、死角から突然現れるようなものだろう。

そういった場合、少なくとも死を意識する時間は短くて済む。

そのことがいいのかどうかは今の僕には分からない。

でも僕は死ぬ前に自らの「死」を正面から見据えて認識したかったのだと思う。

触れてみたかったのだと思う。

感じてみたかったのだと思う。

 

「死」というものに恐れ、おののき、怯え、焼かれ、押され、つぶされ、掴まれ、締められ、泣かされ、叩かれ、痺れ、踏まれて。

そういったものを感じ、味わい、実際に見てみたかったのだと思う。

 

癌が見せてくれた僕の中の「死の王」を。

きっとこれが僕が選んだことなのだと思う。